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2010年07月27日

「ブルース・リー特集」と「北山修 最後の授業」第1夜終了

 昨日告知したNHK-BS2の衛星映画劇場「ブルース・リー特集」と、NHK教育の「北山修 最後の授業」の第1夜を、それぞれ見ました。4夜とも放送時間が重複しているため、ブルース・リーの方を見た後に、「北山修 最後の授業」を録画で観ることになります。
 
 「北山修 最後の授業」、サブタイトルは「テレビのための精神分析入門」と付けられています。今年(2010年)1月に、北山氏の職場である九州大学大学院で開かれた、テレビ公開講座を収録したものだそうです。テレビ公開講座の中で、扱う対象が「テレビのための精神分析入門」、よい意味で変わり者(?)の北山修氏らしいテーマだと思いました(とは言ったものの、北山氏の生徒さんほどに、歌手・作詞家以外の北山氏の側面を詳しく知っているわけではありませんが)。
 
 
"人は誰もただ一人 旅に出て
 人は誰もふるさとを 振り返る
 ちょっぴりさみしくて 振り返っても
 そこにはただ風が吹いているだけ
 
 人は誰も人生に つまずいて
 人は誰も夢やぶれ 振り返る"

(「」 作詞: 北山 修、作曲:端田 宣彦 より)
 
 中学1年生の時、私がこの歌の歌詞を初めて聴いた時から、特別な歌詞として捉えていた様に思います。しかし、当時は誰が書いた詞であるかも知りませんでしたし、そういうことに興味さえ持ちませんでした。はしだのりひこ氏の鼻にかかった声に、ただただ惹かれていただけの様な気もします。
 
 いつも、昼間はみんなと一緒に授業を受けているのだし、放課後はクラブ(部)活動の仲間と一緒、毎日、家(故郷)に帰っては姉や妹や父母や叔母そして、おじいさん、おばあさんとも夕食を食べながら話をしていました。それでも、この歌の「人は誰もただ一人 旅に出て  人は誰もふるさと振り返る  ちょっぴりさみしくて 振り返っても  そこにはただ風が吹いているだけ」という詞を聞いた時、それまで聴いていた歌とは異なる"何か"感じるものがありました。
 
 とは言うものの、「人生に つまずいて」や「夢やぶれ」などは、当時は本当には解っておらず(実感は無く)、その後、少しずつ理解していった様に思います。

 
 そして先ほど見た「最後の授業」テレビ公開講座ですが、心理学者・精神科医であるという北山氏の社会的立場は、それこそ言葉・理屈の上では知っていましたが、その授業風景を見るのは、もちろん初めてでした。しかし、今まで知っていた歌手・作詞家ではない教師としての北山先生の姿に、不思議と大きな違和感は憶えませんでした。
 
 番組の最後の方で、北山先生が「何か質問は?」と問うと、女生徒の一人が「先生の側からすると、今のこの授業は、先ほどから先生がおっしゃっている"ウラ"ですか、それとも"オモテ"ですか?」と疑問をぶつけて来ました。それをキッカケに議論が深まり、北山先生曰く「正にそこ。今(2010年1月)ここの(「何か質問は?」と問うて手が挙がるまでの)"シラーッ"とした雰囲気、これがオンエアーの時にどう映し出されるか、そのギャップを是非見て欲しい」。
 
 昨年末から今年初めにかけて、小沢一郎・民主党前幹事長の政治資金に関して新聞・テレビが行なった報道内容および報道姿勢に異常さを感じていた時に、私の考えが思い至ったこととの関連性を、北山先生の上記の指摘を聞いていて思い出しました。普段、何気なくテレビを見ている人の多くが、そこにテレビという"透明なガラス"が存在することに気付いていないのです。
 
 特に政治を扱うニュース番組において、このことの深刻性は重大です。
 
 
 
 一方の「ブルース・リー特集」ですが、こちらは明日からのブルース・リー主演映画の放映に先立って、自身もブルース・リーと同じく格闘家であり俳優である倉田保昭さんが語った、ブルース・リーの逸話の数々です。単に倉田さんによる回想だけでなく、ブルース・リーの共演者、ブルース・リーに刺激を受けて、それぞれの専門分野で活躍している人々が多数登場されて、ブルース・リーについて、ブルース・リーから受けた影響について語っています。
 
 ブルース・リーの截拳道の後継者・中村頼永氏の実技付き解説は、専門家であるがゆえにリアルです。ブルース・リーのスゴさ・偉大さについては、ブルース・リーのファン一人一人それぞれ一言を持っておられ、それこそ十人十色でしょう。しかし、ブルース・リーの映像を一寸でも見て頂きさえすれば、専門家・素人の双方に、簡単にその「凄さ」が伝わること自体が最も「凄い」と思っています。
 
 それからテレビなどで、ブルース・リーを未だよく知らない人に対して紹介する時の常套文句に、ハリウッド映画にカンフーを本格的に導入した「先駆者」という言葉が使われることが多い様に思います。そして、そういう場合、この「先駆者」という言葉は、その分野に於いて未だ誰もやったことを初めて実現した"パイオニア"という点での価値を重視するあまり、「先駆者」はレベル的には未だ初歩の段階との誤解を視聴者に与えるケースが多いように感じています。
 
 つまり、その後に続く後継者の代にこそ「本命」が登場し、レベル的にもピークに達すると。私は、この見方は必ずしも正しくはない、むしろそうでない場合がしばしばであると常々思ってきました。つまり、「先駆者」=「本命」説です。どうも今までは、いろいろな分野に於いて、「先駆者」と「本命」不一致説が支配しているように思えます。
 
 ブルース・リーは、武道家自身が俳優として格闘技を映画に持ち込んで成功させた「先駆者」であると同時に、いきなり「本命」だったのです。たった5作品(「死亡遊戯」未完のままブルース・リーは亡くなり、死後他者によって完成されましたが)の主演作品ですが、ブルース・リー以降、彼を超えるアクションスターは登場していない様に思います。
 
 同じことがよしだたくろう(吉田拓郎)にも言えます。彼のことを、テレビやラジオで「日本のシンガーソングライターの"草分け"的存在」、「日本のフォークの"黎明期"のスター」というような表現を見かけることがあります。正直、悔しくてなりません。これでは、未だたくろうをよく知らない人が誤解してしまうよ、と。「吉田拓郎は日本のシンガーソングライターの"草分け"的存在にして、かつ"本命"である」と言いたい。
 
 最近の世の中全体が、物事の初期の頃(のレベル)を低く評価し過ぎているのです。みなさんの周りをよく見回してみてください。案外、様々な分野でブルース・リーやたくろうと同じ現象を発見しますよ。
 
 
--- 関連情報 ---
(1) 「ブルース・リー特集」と「北山修 最後の授業」 2010年07月26日 IT屋もりたの今時パソコン日記

投稿者 もりた : 2010年07月27日 01:34 このエントリーを含むはてなブックマーク この記事をクリップ!

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