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2010年04月20日

「日本辺境論」を読んで(その2)

 1つ前のエントリーに引き続き、「日本辺境論」(内田樹(著) 新潮新書)の"読書感想文"を続けます。実際には、本の中味の引用ばかりで、読書感想文にさえなっていませんが悪しからず。前のエントリーと同じく、""で囲んだマロン色の部分が本(「日本辺境論」(内田樹(著) 新潮新書))からの引用、それに続く紺色の部分が私のコメントです。
 
 
 Ⅱ 辺境人の「学び」は効率がいい
 
  ・146ページ~147ページ "「私はなぜ、何を、どのように学ぶのかを今ここでは言うことができない。そして、それを言うことができないという事実こそ、私が学ばなければならない当の理由なのである」、これが学びの信仰告白の基本型です。
 「学ぶ」とは何よりもまずその誓言をなすことです。そして、この誓言を口にしたとき、人は「学び方」を学んだことになります。ひとたび学び方を学んだものはそれから後・・・(途中省略)・・・愚者からも悪人からもそれぞれに豊かな人間的知見を汲み出すことができる。
"
    - わかりやすい一言。この章(Ⅱ 辺境人の「学び」は効率がいい)の結論と言えるかも知れません。
 
 
 以下、少し前に遡って、引用およびコメントします。
 
  ・125ページ "なにしろこれが何のゲームかさえ私たちにはよくわかっていないのだから。日本人はこういう考え方にあまり抵抗がない。"
   - 私自身もそうです。こういう状態は得意、むしろ好きとさえ言えます。

 
  ・135ページ "努力と報酬の間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する、そう言っているのです。これは日本文化の深層に届く洞見だと私は思います。"
   - つまり、事前に何らかの利益や報酬を期待した努力や犠牲は、本当の意味での武士道ではないという考え方です。つい最近見たドラマ(たしかNHKの時代劇)にも、このようなシーンがありました。
 
  ・138ページ "私は「このような考え方に立ったらもう学びは成立しない」と思っていますが、同意してくれる人は多くありません。"
   - (これは、未だ本を読んでいない方のための注釈になりますが)上記の「このような考え方」とは、学び始める前に「教えることの意味と有用性を事前に開示せよ」と「教える者」(教師)に対して要求することを指しています。
 
 
 上記2点に関連するエピソードとして、著者(内田氏)は次のように書いています。
 
  ・138ページ "論文の形式がそうですね。英米系の学会論文では序論で全体の構成と結論が予示されていて、論の全体があらかじめ一望俯瞰されるようになっています(だから十数行読めば、だいたいどの程度の論文か判定できます。・・・(途中省略)・・・)「これから私が書くことが私をどのような結論に導くのかは、序論の段階ではまだわからない」というようなことを書いたら、(本書がそうですけれど)、英米系の学問スタイルに準拠する学会誌のレフェリーからは「一発リジェクト」です。"
   - 私(もりた)のこのブログも、正にそうです(序論に結論を書いてない。英米式のスタイルからすれば「一発リジェクト」)。でも、あえてそうするのもよいかも、確信犯です。
 
 
  ・143ページ "教訓を一言で言えば、師が弟子に教えるのは「コンテンツ」ではなくて「マナー」だということです。"
   - 一昨日、放送された「龍馬伝」(第18回 4月18日放送)で、正にこのシーンがありました。龍馬と勝麟太郎の問答の中で、勝が龍馬に「何でも質問しなさい」というシーン、初めは龍馬の質問に一々答えていた勝が、途中から答えなくなります。龍馬に勝手にしゃべらせて、龍馬自身が発した質問に龍馬自身が答えるということを繰り返しているうちに、とうとう龍馬自身が答えに到達したのです。
 
  ・144ページ "「何を」学ぶかということには二次的な重要性しかない。重要なのは「学び方」を学ぶことだからです。"
   - 私は過去5年間、パソコン教室でパソコンを教えていましたが、初心者にパソコンを教える時に痛感したのが、正にこのことです。初心者がパソコンをスイスイ上達できないのは、些細なことがわからないだけなのですが、初心者を惑わす邪魔者(キーボードの配列とか、様々な用語とか、その他諸々)がその前に立ちはだかって、本質(どう学ぶか、「学び方」)を見えにくくしています。
 
 
 さて(いつもの様に横道にそれて申し訳けございませんでしたが)、もう一度、最初に掲げたこの章(Ⅱ 辺境人の「学び」は効率がいい)の結論的な部分を思い出していただきたいと思います(以下に、再掲します)。
 
  ・146ページ~147ページ "「私はなぜ、何を、どのように学ぶのかを今ここでは言うことができない。そして、それを言うことができないという事実こそ、私が学ばなければならない当の理由なのである」、これが学びの信仰告白の基本型です。
 「学ぶ」とは何よりもまずその誓言をなすことです。そして、この誓言を口にしたとき、人は「学び方」を学んだことになります。ひとたび学び方を学んだものはそれから後・・・(途中省略)・・・愚者からも悪人からもそれぞれに豊かな人間的知見を汲み出すことができる。
"
 
 
 この「愚者からも悪人からもそれぞれに豊かな人間的知見を汲み出すことができる。」ことの一例として、内田氏は「こんにゃく問答」という落語を挙げています。
 
  ・149ページ~150ページ "『こんにゃく問答』という落語がそれです。旅の学僧と、住職に化けた無学なこんにゃく屋の六兵衛さんが無言のままデタラメな問答をする話です。・・・(途中省略)・・・『こんにゃく問答』のすごいところは、この学僧はこんにゃく屋の六兵衛さんから実際に深遠な宗教的知見を学んでしまったということです。弟子は師が教えたつもりのないことを学ぶことができる。"
 
 
 
 以上、「Ⅱ 辺境人の「学び」は効率がいい」のまとめです。「日本辺境論」を読んで(その3)に続きます。
 
 
--- 関連情報 ---
(1) 「日本辺境論」を読んで(その1) 2010年04月19日 IT屋もりたの今時パソコン日記

投稿者 もりた : 2010年04月20日 23:43 このエントリーを含むはてなブックマーク この記事をクリップ!

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