« 新聞投書欄の一般市民の声に目を見開かされる(2) | メイン | 谷山浩子さんの猫森集会2009・マダムTのロウリィ人形館(Dプログラム)の1日目 »

2009年09月21日

新聞投書欄の一般市民の声に目を見開かされる(3) - 語りつぐ戦争

 朝日新聞の投書欄(「声」)、毎月第3月曜日は「語りつぐ戦争」と題して、戦争体験ばかりが掲載されています。今日の朝刊の「声」欄を見て、初めて知りました。「目を見開かされる」などとは、おこがましいと承知しているつもりです。“目を見開いて”(“耳を澄まして”)、忘れぬように、一所懸命に聴きたいという謙虚な気持ちであると自己弁護しつつ、9つの投稿、1つずつ紹介(記事の一部を引用)させていただきます(以下、2009年9月21日 朝日新聞6頁より引用)。
 
 「根室空襲 死臭の中、焼け跡片づけ」(札幌市豊平区の75歳・無職の男性
  北海道根室町で花咲国民学校5年の1945(昭和20)年7月15日に起きた空襲に遭う。焼失した母校の前の町の後片付けでの体験。

(・・・省略・・・)鼻を突く死臭。このトタン1枚の下には人の死体があるのかと思うと身が竦(すく)んだ。
 焼け残った他校で授業を受けることに。夜、帰宅の通り道に墓地があり、爆撃で地中から散った白骨が山積みにされ白々と光を発しているように見え恐ろしかった。翌年札幌に転居後も、火災のサイレンを空襲警報と想起したり、赤ら顔の進駐軍MP(憲兵)を怖がったりする日が続いた。

 
 「山口・光空襲 爆弾の雨の中、海へ」(山口県下松市の85歳・無職の女性
  1945(昭和20)年8月14日、光海軍工廠(こうしょう)への大空襲に遭う。
(・・・省略・・・)B29の大編隊から落とされる爆弾の爆発音。我先にと防空壕に駆け込み震えていました。爆風が土砂を吹き飛ばし、壕の上に「ザー」と土砂がかぶさる音がします。爆弾の雨の中、海岸へ逃げることにしました。
 (・・・省略・・・)事務所の隅には、腹部をえぐり取られ「水、水」と呻(うめ)く人や、足首を切断された人。海岸では、荷役の人たちが海中で爆発した熱いしぶきを浴びたのか、背中や顔に大やけどをしていました。(・・・省略・・・)

 
 「高崎、終戦の日の未明に空襲」(群馬県高崎市の76歳・主婦
  1945(昭和20)年8月14日夜半から15日未明に、高崎で空襲に遭う(当時国民学校6年生)。
(・・・省略・・・) 敵機は揶揄(やゆ)するかのように低空で飛び回り、その中の1機が私を目がけるかのように迫ってきた。耳の脇すれすれに、「シュルルル」と不気味な音。思わず悲鳴を上げ私は倒れた。焼夷弾は道路脇の畑の柔らかな土中に沈み、倒れ込んだ私は危うく命拾いした。(・・・省略・・・)

 
 「広島原爆 再会できた母も倒れ」(神奈川県藤沢市の75歳・美容師の女性
  ピカドン、閃光の瞬間、家族6人を亡くす。広島県北部の三次(みよし)に学童疎開している私を、終戦と同時に東京から迎えに来た姉とともに、広島市内で家族を捜し回る。
(・・・省略・・・)母と再会し喜んだのもつかの間、母の容体が悪化。放射能で皮膚は腫れ、目も口も鼻も見えぬほど。小豆大の斑点が全身に現れ始めた。
 医者が進駐軍にもらった注射を打ち続けたが、母は絞るような声で「注射したくない、死にたい」。9月に息を引き取った。母を抱き上げると髪の毛がすっぽり取れた。(・・・省略・・・)

 
 「ご真影や教育勅語、泣いて燃やす」(埼玉県坂戸市の85歳・無職の女性
 1945(昭和20)年8月15日、教師として旧満州の金州国民学校で敗戦を迎える。

(・・・省略・・・) 8月15日、全職員は校庭に整列した兵隊の横に並び、敗戦の詔勅を聞いた。直ちに近隣の学校からご真影や教育勅語などが集められ、校長の命で校舎裏の穴で燃やした。「昨日まで崇めていたものを」と抵抗感があったが、動乱の中で命令に従った。(・・・省略・・・)日本兵は去り、ソ連軍進駐で玄関にスターリンの肖像画が掲げられ、私自身の母校でもあるこの学校は、この日で消滅した。(・・・省略・・・)

 
 「「天皇陛下、万歳」息絶えた戦友」(熊本県人吉市の82歳・無職の男性
  1945(昭和20)年2月・17歳、千葉県の館山海軍航空隊、飛行場で作業中、米艦載機から突然攻撃を受ける。
(・・・省略・・・)つい先ほどまで一緒に作業してた同年兵の中村だとすぐに分かりました。「おい、お前は中村だな。福田だぞ、分かるか。しっかりしろよ」と力をこめて言うと、包帯だらけの頭がコクリと動きました。それからどれほどたったでしょうか。中村は「テン・・・ノウ・・・ヘイカ、バン・・・ザイ」と引き絞るような声を残して息絶えました。(・・・省略・・・)

 
 「中国人青年と眺めた中秋の名月」(長野県下諏訪町の87歳・無職の男性
  1944(昭和19)年夏、部隊は中国湖南省瀏陽(りゅうよう)から約10キロ離れた村落に駐留した。分隊はある家の半分を占拠し、投書者は「蔡有順(ツァイユウシュン)」というその家の青年と親しくなった。
(・・・省略・・・)ある月夜。珍しく明るい月光に惹かれ外に出ると、有順も出てきた。二人で夜空を眺めていると、彼が何か言った。私が聞き取れずにいると、彼は月を指さしつつ地面に何やら書いた。見るとそこには「中秋節」。「おお!今夜の月は中秋の名月か」。顔を見合わせて頷(うなず)いた。私は同じ月を見ているだろう故国の人々のことを思い浮かべた。(・・・省略・・・)

 
 「「迎えに来てね」泣き叫ぶ母子」(埼玉県和光市の84歳・無職の男性
  1945(昭和20)年8月15日終戦により玉砕命令を免れた投書者は、関東軍の幹部候補生としてハルビンにいた。
(・・・省略・・・)武装解除後は牡丹江の仮収容所に行軍で移動。途中、何組もの引き揚げ集団とすれ違った。(・・・省略・・・)
 民家に残っていた母と娘もいて、「兵隊さん、迎えに来てね、さようなら、さようなら」と繰り返し泣き叫んで手を振った。その情景は今も目に焼き付いて離れずつらい。(・・・省略・・・)

 
 「火柱噴き上げ、戦艦大和が沈没」(東京都小金井市の79歳・無職の男性
  1945(昭和20)年4月6日、戦艦大和を旗艦とする10隻の艦隊で、沖縄上陸作戦中の米軍を攻撃すべく山口県徳山沖を特攻出撃。翌7日、米機動部隊の艦載機から激しい攻撃を受け被弾。
(・・・省略・・・) 私は被弾後、艦長室に駆け込み、艦長の命令で艦内各部署を夢中で駆け回った。甲板には掃射を浴び身を切断された遺体が重なり、血だらけで倒れる下士官の胸ポケットからは写真がのぞいていた。
 「大和が沈むぞ!」。誰かの叫び声がした。魚雷と爆弾を集中的に受けた大和の鑑底中央から火柱が高く噴き上がったのが最後だった。(・・・省略・・・)

 
 
--- 関連情報 ---
(1) 「ヒロシマナガサキ」 2009年08月06日 
(2) 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その1) 2009年08月09日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(3) 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その2) 2009年08月09日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(4) 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その3) 2009年08月09日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(5) 新聞投書欄の一般市民の声に目を見開かされる 2009年09月15日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(6) 新聞投書欄の一般市民の声に目を見開かされる(2) 2009年09月20日 IT屋もりたの今時パソコン日記

投稿者 もりた : 2009年09月21日 22:07 このエントリーを含むはてなブックマーク この記事をクリップ!

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.imadokipc.com/mt/mt-tb.cgi/1438

コメント

コメントしてください




保存しますか?