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2009年08月09日

長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その3)

長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その1)長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その2)からの続き
 
「近所の人や(悦子さんの)友人・いとこらが悦子さんの家に来ると、お母さんは悦子さんの悪口を家に来た人たちに話したという。お母さんが悦子さんの悪口を他の人に話しているのを聞くことだけが、(悦子さんにとって)最もつらかった。『悦子が妹・弟を鹿児島から連れ帰って来なければ、二人は死なずにすんだ。(悦子が悪い)』
 
 悦子さんが“語りべ"を始めた頃、それを知ったお母さんから『いい仕事を始めたね。頑張って続けてね』と言われたことがある。唯一、お母さんに親孝行が出来たと思った。『(身体的に)可能であれば母も“語りべ"をしたかったのではないか。母の分まで“語りべ"を続けて行きたい』その時、そう思った。」

 
 インタビュワーが『弟さんを見つけた防空壕を、最近になって、もう一度訪れたそうですね』と聞かれ答える悦子さん。
 
「その時(もう一度訪れた時)の気持ちは、言葉では言い表せない。弟・妹に対して、死ぬ迄自分を許すことは無い。(“語りべ"を始めて)3年間、妹・弟の話が出来なかったのだから、防空壕に行ったことも、いつになったら話せるかわからない。初めて話す迄が、なかなか出来ない。
 
 
 ナカモトさんに会って『○○ちゃん(弟さん)』の話を聞いた。今まで(ナカモトさんも、悦子さんの心の痛みを心配して)話さなかったのだと思う。64年も経って、お互いに、今話しておかなければならないと思い始めたのだと思う。」
 
 
もりた注)途中、どこでお話になったか忘れてしまいましたが、下の2つほど抜けていますので、書き加えます。
 
「自分(悦子さん)が死ぬ時は、いろいろな人を呼んで葬式をして欲しくはない。弟は家族に死体を焼かれて葬られ、妹の葬式も家族だけで見送った。私だけ普通の葬式をしてもらって、(たくさんの人に見送られて)死ぬわけにはいかない。子供たちにそう言ってある」
 
「お母さんが、自分に直接非難の言葉を浴びせるでもなく、かといって自分(悦子さん)の方から話しかけることを微塵も許さない気を漂わせている。(16歳の自分は)本当は甘えたくてもそれが出来ない。どうしようもなくて、2日間だけ家を飛び出したことがある。友人の家に泊めてもらったのだ。あとになって、お母さんは必死になって悦子さんを捜していたと聞いた。(でも家に帰ってみると相変わらずお互い口をきかない。)その時、母が私を愛していることがわかった。それ以来、二度と家を出ないと思った。」
 
 
 お話の最後の方で、もう一つ悦子さんが何気なくさりげなく、しかし、しっかりと語っていたことがあります。最後にそれを紹介します。
 
「『二度と戦争をしてはいけない、核爆弾を使わしてはいけない』ということを、一人でも多くの若い人に伝えるために、“語りべ"の仕事を続けていきたいと思っている。」
 
 
--- 関連情報 ---
(1) 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その1) 2009年08月09日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(2) 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その2) 2009年08月09日 IT屋もりたの今時パソコン日記

投稿者 もりた : 2009年08月09日 12:58 このエントリーを含むはてなブックマーク この記事をクリップ!

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