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2009年08月09日

長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その2)

長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その1)からの続き
 
「昨夜、弟は一人っきりで(目も見えず)知った人もわからず、どんな(に不安な)気持ちであったろう。(自分達(悦子さんとお父様)が、昨夜のうちに家まで戻っていたら、不安な思いをさせずに済んだだろうにと悔やんでならない。)その日、母と妹も見つかり、その後は家族5人で一緒に居た。
 
 その翌日(8月11日)、弟は亡くなった。目の前の焼け野原から板を探してきて、自分たち(家族)の手て弟を焼いた(火葬した)。(悦子さんは『今、自分たちで家族を火葬することってありますか?』とインタビュワーに問うた。言い表せない心の内を表したものと思う)
 
 1ヶ月して妹も亡くなってしまった(9月10日)。死ぬ前の5~6日間は“のたうち回って”苦しんで死んで行った。

 
 二人が亡くなってから、お母様は悦子さんに話をしなくなった。『(本人達が嫌がったら連れ戻さないようにと言って、あなたを迎えに送り出したのに)あなたが無理矢理、長崎に連れて帰ったから二人が死んでしまった』そう言って、お母様が悦子さんを責めることは決して無かった。しかし、お母様には悦子さんが話しかけることを決して許さない、強い何かがあった。それが悦子さんにはたまらなかった。その後、50年間二人は共に生き続けることになる。
 
 
 戦後50年経った時、悦子さんは“語りべ”の仕事を始めた。それ迄、戦争のことを報じた新聞記事やテレビ番組は無条件に避けてきたが、50年経った頃から(ご自身が)少しずつ変わって来た。たまたま新聞に“語りべ”募集のことが書いてあり、それで始めた。それでも最初の3年間は、妹と弟のことは話さなかった(話せなかった)。4年目、鹿児島の学校で“語りべ”をした時、話し終わった後に生徒さんの一人から『いつも、どんな思いで過ごされているのですか?』という質問があった。
 
 その時初めて『自分がこの鹿児島から妹・弟を長崎に連れ戻したために、死なせてしまった。いつも妹と弟に“すまない”という気持ちで生きている』ということを泣きながら話した。引率されていた先生が『今まで10年間、'語りべ'のお話を生徒たちに聞かせています。被爆の後遺症による体の痛みや、家族との死別の悲しみのお話は何度となく聞いてきたが、'心の痛み'の訴えをお話いただいたのは今日が初めてです。どうぞこれからも、語り続けていってください。』とおっしゃられた。」
 
 
 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その3)へ続きます。
 
 
--- 関連情報 ---
(1) 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その1) 2009年08月09日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(2) 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その3) 2009年08月09日 IT屋もりたの今時パソコン日記

投稿者 もりた : 2009年08月09日 12:30 このエントリーを含むはてなブックマーク この記事をクリップ!

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