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2009年08月09日

長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その1)

 昨夜、日付で言えば今朝未明、NHKラジオ深夜便1時台で長崎被爆者 永野悦子さんのお話(被爆体験)が放送されました。ほかの人にも知っていただきたくて、掲載します。耳で聞いたのを文にしましたので、お話された通りの言葉とは違います。聞き間違いも多いと思いますが悪しからず。
 
「長崎県諫早市 被爆した永野悦子さんのお話
 
被爆当時16歳。13歳の妹と9歳の弟を、長崎の原爆で亡くした。鹿児島に疎開していた妹・弟を悦子さんが迎えに行って、無理矢理連れ戻した。『私が連れ戻さなければ、妹・弟は死ななかった』と64年経った今でも後悔していらっしゃる。
 
 風呂に入って『ホッ』とした時も、おいしい物を食べた時も、友人と旅行している時も、『私だけいい思いして、妹・弟に申し訳ない』という気持ちをいつも思う。
 
 お父様が早く亡くなり、お母様と悦子様二人だけで生きた時間が、その後50年続いた。妹・弟を鹿児島に迎えに行く時、お母さんから、『本人達が鹿児島に残りたいと言ったら、(無理に連れ戻さず、悦子さんだけ)そのまま帰ってくるように』と言われて家を出た。迎えに行ったら弟は『このまま鹿児島に残りたい。たくさん友達が出来たので帰りたくない』と言った。にもかかわらず私が無理に連れ帰った。(妹・弟と離れ離れの生活は)妹・弟と一緒に居たかったんだろうね。私が寂しかったのだと思う。

 
 (昭和20年)8月9日(午前)11時過ぎ、悦子さんは爆心地から2.3kmの体育館の中で作業をしていた。雷の何千倍も光ったと同時に、屋根からいろいろなものが爆風で飛んで来て、体育館のガラスが割れた。親指で耳を、残り4本の指で目をふさぎ、うずくまった。そういう訓練を繰り返し受けていた。しばらくしてから、起き上がって家に向って歩き出した。
 
 途中でお父さん(三菱電機の工場で働いていた)と出会った。そこらじゅうが火事で、たくさんの死体。皮膚があちこち破けて皮がむけた人や、片方の目が飛び出して“ダラン”と下がった人が『水をください』と声をかけてきたが、『私も父も水筒を持ち合わせていなかったので、水を差し上げることが出来なかった』その晩は(家にたどり着かず)二人で途中で夜を明かした。
 
 翌日、家の近くまで来ると、知人が『○○ちゃん(弟さんの名前)が防空壕に居るよ』と教えてくれたので、二人で捜しに行った。悦子さんの記憶では(定かではないが)、防空壕がたくさんあって、1つずつ『○○ちゃん』と叫びながら捜していると、ある防空壕で一人子供が居た。丸焦げで両目はつぶれていたが、他にそれらしき(背格好の)子供の姿が無いので、もしや弟ではないかと思った。しかし、信じたくは無かったので『○○ちゃん?』と聞くと、その子がうなずいた。もう一度『○○ちゃん?』と聞くとやはり頷くので、弟とわかった。よくみると焼け破れた手(足)の袖口に、母が縫った『○○国民学校4年 □□○○』と書いた名前があった。」
 
 
 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その2)へ続きます。
 
 
--- 関連情報 ---
(1) 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その2) 2009年08月09日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(2) 長崎被爆者 永野悦子さんの証言(その3) 2009年08月09日 IT屋もりたの今時パソコン日記

投稿者 もりた : 2009年08月09日 11:54 このエントリーを含むはてなブックマーク この記事をクリップ!

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