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2007年08月26日

越谷市郷土研究家・高崎 力先生

 昨日、埼玉県越谷市中央市民会館・劇場で開催された「日本一の力持・越谷出身・三ノ宮卯之助 -持ち上げた610キログラム-」と題する高崎 力先生のご講演を拝聴しました。
三ノ宮卯之助生誕200年記念講演会が開催された越谷市中央市民会館越谷市中央市民会館を入ると「日本一の力持・越谷出身・三ノ宮卯之助 -持ち上げた610キログラム-」の案内が出迎え

 三ノ宮卯之助(1807~1855年)は越谷市三野宮出身で、江戸力持番付で東の大関(注1)になった人物ということです。埼玉県を中心として、日本各地に卯之助が持ち上げたとされる石が発見されており、力持自慢として各地を興行して歩いたようです。
(注1) 江戸時代、相撲番付の最上位は大関でした。相撲に横綱という地位が登場するのは、明治以降です。
 
 
 高崎 力先生は、わが越谷の郷土研究の第一人者として、さまざまな調査・研究をされて来られた方と認識しております。小中学校の教員を長年勤められた後、教育委員会など教育のお仕事に従事される一方、見田方遺跡の発掘・調査で大きな業績を残されるなど、郷土・越谷の歴史研究に大きな貢献をされて来られたとお聞きしています。
 また新方領耕地整備事業の任に当たられ、越谷の教育・文化・農業など多方面にわたり貢献されて来られたということです。
 
三ノ宮卯之助について講演される越谷市郷土研究会・常任顧問 高崎 力先生
 三ノ宮卯之助について講演されるNPO法人 越谷市郷土研究会・常任顧問 高崎 力先生。

 高崎先生は、私の住む越谷市桜井地区大泊のご出身で、小中学校時代の同級生のおじさんでもあるため、親しみを持っていました。越谷市立北中学校では直接授業は受けておりませんが、一緒に林間学校に参加した思い出があります。
 高崎先生は現在80歳を越えていらっしゃるとお聞きしていますが、今年6月、越谷市郷土研究会総会後の“映像で見る「懐かしの越谷」”上映会で約37年ぶりに元気なお姿を拝見し、とても勇気づけられました。
 
 
 昨日のご講演では、三ノ宮卯之助の研究に携わるきっかけから裏話に至るまで、高崎先生の56年間の卯之助研究のお話を、わずか1時間半でお聴きしました。結論だけを表や資料にまとめると、わずか21ページの資料ですが、1つ1つの事がわかるまでに年単位の時間がかかることを知りました。
 
 例えば卯之助の力石は関東(埼玉、神奈川、江戸)のほか、関西(大阪、姫路)でも発見されました。卯之助がどのようなルートを通って関西まで行ったのか、高崎先生は甲府に目星をつけて何回も調査に行きましたが、なかなか見つからなかったそうです。
 何年も経って、山梨県の図書館から卯之助の資料が見つかったという連絡が入ったそうです。図書館では、資料の意味・価値が理解できないため、「その他」に分類され、しかも概要は「不明」となっており、そのため先生が何回アタックしてもわからなかったのだということです。
 
 また卯之助の力石は関東では、埼玉、神奈川、江戸でそれそれ複数個発見されているのですが、千葉県(木更津)に1個だけ発見されたそうです。この謎を解くため、高崎先生は力石が発見された木更津に通うなど熱心に調査しましたが、結果的には江戸にあったものが木更津に運ばれたものであることがわかったそうです。この件で6年の歳月を費やしたそうです。
 
 
 三ノ宮卯之助の日本一が、様々な観点で証明されるということですが、高崎先生から最後に見せていただいた垂れ幕が一番わかり易いので掲載します。(なおそれぞれの注記は、先生のお話や資料を基に私が付け加えたものです。)
三ノ宮卯之助の日本一についてまとめられた垂れ幕
 三ノ宮卯之助のさまざまな日本一についてまとめられた垂れ幕。

 日本一
 
  ・卯之助力石総数 37個
    江戸時代、日本各地に力石自慢はたくさんいたが、発見されている力石の数は卯之助の名が刻まれたものが日本一多い
 
  ・御上覧力持の栄 江戸深川八幡神社 天保4年6月
    徳川将軍様に見せたのは卯之助だけ。
 
  ・力持巡業往復距離 姫路往復天保年間
    卯之助は江戸から姫路まで往復している。他の例としては、土橋久太郎が江戸から諏訪大社まで行っている。
 
  ・「江戸力持番付」で東の大関
    天保4(1833)年6月と嘉永元(1848)年6月。嘉永元年6月12日の番付表をスライドで見せていただきました。
 
  ・祈願成就の力石 甲府・稲積神社
    甲府・稲積神社にある力石は地元では“文殊の石”と呼ばれ、大学受験・恋愛成就の石として祈願の対象となっているそうです。こういう力石は卯之助の力石だけ。
 
  ・大磐石の重さ・610kg 桶川・稲荷神社 嘉永5年
    桶川・稲荷神社にある力石の重さは610kgで日本一。通常力石の重さは寸法と石質からの推測値が多いのですが、ここのは実測値だそうです。
 
  ・銅像になった力石(力持) 平成18年12月 姫路・魚吹八幡神社
    高崎先生が姫路・魚吹八幡神社を訪れた際、16歳の時の卯之助の故事を語ると、お話を聞いた神社の方は大変感激されたそうです。まさか銅像まで造るとは、高崎先生も驚いたそうです。銅像になった力石(力持)は卯之助だけ。

 
 高崎先生は北川崎を力石の拠点にしたいとおっしゃり、昨日の講演会場に越谷市北川崎地区の人が1人もいないことを、非常に残念がっていました。それは、北川崎の川崎神社には17個もの力石があり(数の多さ)、重い石が多いこと(重さ)、さらに“同行●人”と書かれた石があること(珍しさ)の3つが理由だそうです。
垂れ幕を使って、日本一・三ノ宮卯之助について説明される越谷市郷土研究会・常任顧問 高崎 力先生
 垂れ幕を使って、日本一・三ノ宮卯之助について説明されるNPO法人 越谷市郷土研究会・常任顧問 高崎 力先生。

 このうち“同行●人”、例えば「五十貫目 文政七甲申五月吉日 川崎村 同行四人」というのは、五十貫目(約188kg)の石を4人で協力して持ち上げたということだそうです。
 
 このように昔は、若者が力石を持上げることが、広く行なわれたそうです。持上げられた者は一人前として認められ、大人社会にデビューすることが出来たということです。なかでも、この川崎神社の石に刻まれているように、仲の良い友達同士が協力し合って、五十貫目や百貫目(約375kg)の力石の持上げ(力持)に挑戦したことが記録として残っていることは、珍しいということです。高崎先生は「今で言えば甲子園を目指して猛練習する高校球児のようなものだ」と、例えていらっしゃいました。
 
 
 力石の持上げが大人社会へのデビューのためと聞いて、“我先に”という個人主義一辺倒なイメージを持ちました。しかし、若者同士協力して重い石の持上げに挑戦するという話を聞いて、功名心と協調心をバランスさせて持っていた当時の若者に感心しました。そのような若者たちが、かつてこの越谷にいたということを知り、うれしくなりました。
 
 
 また、そのようなことを半世紀以上の年月をかけて1つ1つ明らかにして来られた高崎先生を、郷土の先輩として誇りに思うと同時に、心から尊敬いたします。
 
 
--- 関連情報 ---
(1) 越谷史跡めぐり~野島・三野宮~(1) 2006年10月28日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(2) 越谷史跡めぐり~野島・三野宮~(2) 2006年10月29日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(3) 映像で見る「懐かしの越谷」 2007年06月24日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(4) 越谷市出身“日本一の力持ち”「三ノ宮卯之助生誕200年」記念講演会 2007年06月25日 IT屋もりたの今時パソコン日記
(5) 「三ノ宮卯之助生誕200年」記念講演会 2007年08月20日 IT屋もりたの今時パソコン日記

投稿者 もりた : 2007年08月26日 21:10 このエントリーを含むはてなブックマーク この記事をクリップ!

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